| 〈コアラ釣り〉 「そら、あそこに子コアラがいる」 祖父が言った。僕は祖父が指さす先を見た。子コアラは地学の棚の陰に隠れて本棚から抜き取った本のページをむしゃむしゃと食べていた。 祖父は腰にぶら下げた釣り竿を取り出した。その釣り竿は祖父の手製であり、いわゆる魚を釣る竿よりもしっかりとした作りになっていた。釣り糸の先にはこれまた祖父の手製のルアーがつけられていた。それは大きな羽を持つ蝶のような形をしていた。 「こいつにはコアラどもを魅了して吸い寄せる匂いがついておるんじゃよ」 祖父はルアーの調子を確かめるようにして手に持ち言った。 ひゅっという音と共に祖父は竿を振り、ルアーを飛ばした。ルアーは水上を滑走する飛び魚のごとく空気を切り裂き子コアラのそばに音もなく滑り込んだ。 「あまり近すぎてはコアラどもが警戒するからな。適度な距離をとって奴ら自身にルアーの存在を気づかせんといかん。ここがコアラ釣りの難しいところじゃ」 祖父は真剣な眼差しでルアーと子コアラを見ながら言った。子コアラはまだルアーには気がついてはいなかった。 「僕にも出来るようになるかな?」 「出来るようになる。お前はまだ小さい。だが、じきに出来るようになる。人は成長するものだ」 僕はうなずいた。 子コアラがルアーの漂わせる媚薬の匂いに気がついた。手に持った本を放り投げ、ゆっくりとルアーに近づいていった。その姿はかわいく、とても愛らしいものだった。 「なんだか凄くゆったりとしていて、とても凶暴な動物には見えないね。捕まえるのかわいそうだね」 僕は言った。 「あの子はまだ子供だからな。だが、なめてはいかん。奴らは普段力を押さえておるんじゃ。見た目のかわいらしさに騙されてはいかん。それに奴らをほうっておいてはやがてこの図書館の全ての本が食べられてしまう。そうなったら困るだろう?」 困る、と僕は思った。本がなくなった世界なんて想像したくない。みんなそうだと思う。だから祖父はこうしてコアラ釣りを続けているのだ。 「食いついた!」 祖父が言った。子コアラがルアーを抱えるようにして食べていた。祖父は子コアラがしっかりとルアーを抱えるのを確かめるとリールを回した。子コアラはしっかりとルアーを抱えたまま何か変だと気がついたのか激しく暴れた。本棚をあちらこちらへ飛び回り、宙返りをし、釣り糸を引っ張っていた。その顔は少し前のおっとりとしたコアラのものではなかった。鋭く光る牙をむき出し、目をつり上げ爪をたてていた。僕は恐ろしくなった。体が震えた。 僕は祖父を見た。祖父は表情を変えずに釣り竿を左右に振り、リールを巻いたり戻したりして子コアラと戦っていた。 「腰にある眠り薬の瓶をとってくれ」 祖父が言った。僕は祖父の腰に巻かれたたくさんの道具が入った袋の中から一本の瓶を取り出した。 「そいつを布にしめらせて用意しておけ。もうすぐあいつを釣り上げる。そうしたら暴れないように眠らすんじゃ」 僕はうなずいて、袋から布を取り出した。 と、僕は後ろに何かが立っているのを感じた。僕が振り向くと同時にそれは激しい衝撃を僕に与えた。僕は吹っ飛ばされ、棚に頭を打ちつけた。手に持っていた眠り薬の瓶は転がっていった。 少しして目を開けると、目の前では祖父が大きなコアラと戦っている姿があった。 祖父は熊のように大きなコアラを相手に小さなナイフ一本で戦っていた。子コアラは逃げたのか姿が見えなかった。 親コアラだ! と僕は思った。 僕らが子コアラに意識を集中させている間に親コアラが近づいて来ていたのだ。僕は起きあがらなければいけないと思った。だが、脳しんとうのせいか、恐怖心のせいか体は思うようには動かなかった。 祖父は落ち着いて親コアラと距離をとり、相手を牽制していた。だが、あまりにも体格差がありすぎた。親コアラは興奮し狂暴になっていた。 親コアラが右手を上げ振り下ろした。祖父はしっかりとそれを避けた。だが、次に来た左手の突きをかわすことが出来なかった。祖父はぬいぐるみの人形の様にはじき飛ばされ床に落ちた。 「おじいちゃん!」 僕は叫んだ。 祖父は口から血を流していた。すぐに親コアラは床に這う祖父を捕まえようと走り寄って、踏みつぶそうとした。祖父はくるくると体を回転させると親コアラの股の間を抜けた。 「釣り竿を!」 祖父は体を起こすと僕の方を見て言った。僕は自分のすぐそばに釣り竿が転がって来ていたのに気がついた。僕は釣り竿を取ると祖父の方へと投げた。 祖父は親コアラの攻撃をよけながらそれを受け取った。そして素早く釣り竿を振った。 しゅっ、という音ともにルアーは親コアラめがけて飛んで行った。 僕は祖父がルアーを使って親コアラと戦うんだと思った。だが、ルアーは親コアラにはあたらず、脇を通って行った。親コアラはルアーの事なんかにはかまわずに祖父の方へと突進してきた。 僕はもうだめだ、と思った。 だが、祖父は落ち着いていた。祖父は竿を引き上げルアーを戻した。僕はそのルアーの先に眠り薬の瓶が巻き付いているのを見た。祖父はその瓶を取るために竿を振るったのだ。祖父は素早く瓶を手にすると釣り竿を親コアラに投げつけた。 親コアラが釣り竿に一瞬だけ意識を奪われたときに、祖父は走って親コアラの股の間をスライディングの要領で抜けた。親コアラは祖父が一瞬にして目の前から消えたため、不思議そうにあたりを見回していた。 僕は祖父が親コアラの背を登るのを見た。そして、親コアラが祖父の姿を確認する前に、眠り薬をたっぷりとその顔にかけられるのを見た。 すぐに親コアラは冬眠している熊のように安らかな顔で丸くなって眠ってしまった。 僕は祖父の所に駆け寄った。祖父は大量の汗をかき、擦り傷から血を流していたが、それほど重傷という感じではなかった。 「おじいちゃん大丈夫?」 ああ、と祖父は言うと床に座り込んだ。 「お前、事務所の職員さんを呼んできておくれ。わしは少し疲れたし、しこたま眠り薬を吸ってしまったから少しだけ寝ることに……」 祖父は言い終わる前に床に大の字になって大きないびきをかき始めた。 「すぐに人を呼んでくるからね。それくらいは僕にも出来るんだから」 僕は祖父の胸に手を置き、言い、それから走って事務所へと向かった。 それから十年が経った。時間の流れと共に様々なものは変わっていった。祖父は亡くなり、図書館は改築され、超音波でコアラを寄せ付けなくするハイテク技術が導入されてコアラ達は消えた。僕はコアラ釣り師にはならずにただの大学生になっていた。今の世の中でコアラ釣り師のことを知っている人はほとんどいない。このハイテクの時代にはコアラ釣り師は必要じゃないのだ。 僕は近代的に改築された図書館の中を歩いていた。床はぴかぴかと光り、棚にはきちんと整頓された本が並んでいた。そこにはもちろんコアラの姿はない。それでも僕は本棚の陰にコアラの姿を見る。そしてありし日の祖父の姿を見る。それらは幻であり、すぐに消え去る。そして、あとには清潔で綺麗で都会的な棚と床と本があるだけだった。錆ついた鉄の棚やワックスでつるつる滑る床や埃を被ったかび臭い本ではない。 綺麗で便利になったことはいいことだ。それでも僕はこうしてたまに図書館に来て彼らのことを思い出す。永遠に失われてしまったものであり、もはや引き返すことのできない日々を思い出す。僕は彼らのことを思い出すたびに何とも言えない静かで穏やかな気持ちになる。そして、そうした気分に浸りたいときに僕は図書館へと足を運ぶし、時々そうした気分に浸りたくなるのだった。 |
了