〈気になる相手〉

 君の好きな物語を話してあげるから目を覚ましておくれ。
 語り掛けられ私は目を開けた。覗き込むように空男が私を見ていた。
 空男の空は雲が浮かぶ空の空ではなく、空っぽの空を意味していた。中身のない男だった。比喩でなく現実的に肉体的に空なのだ。表面の皮膚だけが彼の体だった。
 ぺらぺらだけど、実際にはきちんとした人間の体のように厚みがある。服も着ているしメガネもかけている。
 空男は皮だけの男だけど、中にはたくさんのものがつまっていた。それらがある限り、空男はふっくらとしている。
 時々取り出すようにして、空男は自分の中につまっているものを伝えてくる。
 熱い砂漠の話をすると空男の息は熱波になり、オーロラの話をする時は凍えるような吹雪になった。
 体の不自由な私のために、空男は話をした。
 体の中にたくわえたものを全て吐き出しきってしまうと、空男は旅にでた。吸い込んだことのないものを探す旅だった。
 時々旅は長くなった。
 何日も何週間も帰ってこないことがあった。
 吸い込んだことのないものを探す旅だ。時々それは困難なものになった。簡単に吸い込めるものはもう全て吸い込んでしまったのだ。結局、空男の旅はだんだんと長く難しいものになっていく。
 ある時、空男はぼろぼろの姿で帰ってきた。ジャングルの奥地に行っていた、と彼は言う。珍しい花を私に伝えてくれた。
 ある時は夜会服姿で帰ってきた。煌びやかなシャンデリアまで私に伝えてくれた。
 私はベッドに横たわったまま、世界のあらゆる所に行くことができた。
 空男の旅は終わりがないように思えた。だが、違った。ある時、空男はもうこれで終わりだよ、と言って、最後の話を私に吹きかけた。ペラペラになった空男は軽い風に吹かれて消えた。舞っていく間にばらばらになって粉になって。
 私の体は不自由さを失い、自由を手に入れた。
 私の周りに世界があった。もっと正確に言えば、私の周りにしか世界は存在しなかった。空男がそれを運んできたのだ。
 ある昼下がりに私は空男に似ている男を町で見つけた。私の町で、私の時間に。
 私は彼に空男の話をした。男はただ笑っていた。男は、彼が私の町に存在しているということも理解できなかった。
 僕には君が不自由な体をしているようにも思えない、と男は言った。それは、昔の話で、今は違うと説明しても笑うだけだった。
 私達はずれていた。ただ、互いになんとか理解しようと努力した。
 それで、結局私達は一緒に生活を送ることになった。
 普段は空男の話はしなかった。
 それは特別なことに話題が及んだときにのみ出てきた。大体が私が話をした。男はただ聞いているのみだった。男は、私があまりにも色々知っていることに驚いていた。そして、去っていった。私に比べて、自分の存在があまりにも希薄に感じたのだ。私が世界を握っている限り、男は私の外には出られない。
 私は世界をあるべき場所に返すことにした。それは私が持っているべきものではないのだ。
 私は再び不自由さと一つのベッドを手にいれた。

 長い旅だったんだ、とその存在は言った。もっと、何かあるのかと思って旅を続けていたんだ。
 その存在は眠っている私に近づいてきた。なつかしい感覚があった。
 でも、何もなかったね。やっぱり、僕と君はもう全て知ってしまったらしい。
 私は眠りから起きる。だが、瞼は閉じたまま。
 けれど、戻ってきたのね、と私は心の中でつぶやく。そうだね、といい、それは私の額に手を置く。それはやわらかいぬくもりを持っている。
 もう一度君の好きな物語を話してあげるから目を覚ましておくれ、とそれは言う。
 そして、私はゆっくりと瞼を開く。



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