| 〈ケンディルティン州のダム監視員〉 「やあ、見て下さいよ、頭が良さそうだ。健康そうだし、それなりに幸せそうだ」 隣に座る老人はこうして僕に話しかけてきた。顔を上げ、視線をカフェの大きなガラス窓に移すと、その先には保育士に手を引かれて行く幼児の集団がいた。桜の花が風に吹かれてちらちらと翻りながらその中に舞い落ちていた。 「一番背の高い、黄色いパーカーの……」 老人は続けた。そして、僕は彼の話を子供たちが視界の外へと消え去った後も聞き続けることになった。 ケンディルティン州のケンディルティンダムは、老人に言わせると、高みからのぞいた底は吹き上げる霧の中にあり見えず、対岸を望もうとしても、それもまた霧の先にあるほどに大きなものだと言うことだった。 「私は長いことそこの監視員をしていましたよ」 監視員は老人一人であり、そのダムの規模の大きさから言って、それは大層な仕事であったが、そうした実体と実質的な仕事の落差は激しかった。ダムは、それが吐き出す日々の水量を自動的に決定し、行動に移していた。 「私の仕事などは、全てただの散歩の延長にありましたよ」 彼の言うとおり。そこには仕事らしい仕事はないに等しいという感じを受けた。彼のただ一つの仕事は、毎日決まった通路を歩き、過去との明白な違いを見つけたときだけに監視室の受話器をあげ、相手にそれを告げる、それだけだった。 「一日での明白な違いなどはなかったですよ。それでも、少しずつの変化はあったのですな」 最初に受話器をあげたのは、水が凍りついたときだったと語った。ダムが氷のかけらを挟み不調を訴えてきた。彼がそう受話器の向こうへと告げるとすぐに大勢のダム修理人が来て問題を解決していった。 「何万年も……」 何万年? で僕は笑ったが、老人はまじめな顔をして話を続けた。 「その間に、何度か受話器をあげましたよ」 やがて、修理人の中に顔を知り合い、仕事後にコーヒーを飲みあう仲になるものができた、と老人は言った。ある時、老人は修理人の一人に自分の給料はどうなっているのか聞いた。仕事だから当然給料が発生している。だが、一人でダムの上にいることには、給料として支払われる金の値打ちは全くなかった。老人は修理人に、貯まった給料を有効に使ってくれるよう依頼した。 「それが始まりでしたよ」 老人のダムでの生活の日々に激しい変化はなかった。本当に時折ダムの不調を見つけ、受話器をとって修理人を呼ぶ以外にはするべきことはなかった。それ以外は昨日も一昨日もなく同じであったらしい。 「思うに、ああした孤独に耐えられるかどうかが、あの仕事を続けていく上に必要とされていた才能だったのですな。私はその才能があったから採用されたのですよ」 だが、そうした静かな絶え間ない集中力の継続、それは約束されたものであったようだが、実際には修理人が持ってくる手紙によって乱された。修理人は老人の給料をさる女性のために使っていた。彼女は一人で息子を生み、育てないといけない運命にあった。 手紙は老人の援助に対する礼であった。 「私は彼女に手紙を書きましたよ。彼女は自分の趣味や子供のことについて書いてきてくれましたな」 そうして、老人は手紙をひた待つ日々を送ることになった。手紙は修理人が持ってきてくれた。修理人はダムが不調を訴えない限りには老人のもとへは来なかった。強固なダムはそう頻繁には不調を訴えなかった。老人は彼女とその子について考え暮らして、ダムの不調を心待ちにするようになった。平穏な日々を続けないといけない仕事というものに狂いが出始めたのだ。 「私は彼女が体を悪くしていることを知りましたよ」 パイプつまりを直すためにきた修理人が渡した手紙にはそう書かれていた。 「それで、私はその後というのが気になったのです」 とどのつまりに老人は受話器をあげ、虚の報告をした。 「そうして、私は手紙を手に入れて、仕事を失いましたよ」 手紙には彼女が病死したことが書かれていた。そして、老人は地上へと戻ってきた。 「その彼女の子がさっきの少年なんですね」 と、僕に言われて老人は軽く笑いながらうなずいた。パイプに煙草をつめ、火をつけた。慣れていないのか、なかなか火がつかなかった。 「これも、こっちにきてからでね」 老人は笑った。煙草は少しして薄紫色の煙をあげた。 「そろそろ行かないと」 言いつつ老人は席を立ちコートを羽織った。どこへ? などと僕は口に出しそうになったが、言葉は飲み込んだ。老人はカフェの扉を開けると一瞬だけこちらを見て頭を下げ、帽子を風に飛ばされないよう手でおさえ、陽の中へと消えていった。 少ししてから、僕は目の前の冷めたコーヒーを飲み干し、自分のコートを手にやはり陽の中へと進み出、老人の行った先とは逆へと歩き出した。 それが僕にとって最初で最後のケンディルティン州のダム監視員との出会いと別れだった。 |
了