〈株式会社超宇宙防衛軍〉

 幼い子の泣き声が聞こえた。僕は自転車の速度をゆるめた。子供の泣き声は、夜の浜辺に打ち寄せる波の音の狭間にかろうじて聞こえるくらいの音で風にのり、僕の耳に届いていた。
 僕は自転車を防波堤に立てかけた。僕の自転車は長距離を走るために改造されたもので、無駄な装備は全て外してある。それは従来の自転車についているスタンドも例外ではない。だから、壁に立てかけなければいけなかった。
 僕は浜へと続く階段を下りた。泣き声はいっそう大きくなった。街灯の光の届かない闇の中を僕は目を凝らして一歩一歩その声のする方へと歩いて行った。
 やがて、その声の主の姿を確認した。
 子供は三歳くらいの女の子だった。彼女は闇の中、取り残されたか迷子になったかでうずくまり、泣いていた。
 僕は彼女に近づいた。彼女は一瞬僕の姿を見ると、泣き声を飲み込んだが、すぐにさらに大きな声で泣き始めた。無理もない、と僕は思った。僕の姿は長い旅の果てに髪も髭もぼうぼうでやせぎすの汚らしい格好なのだ。浮浪者と紙一重である。
 僕は彼女に鞄から出した飴玉を与えた。彼女はそれをおそるおそる僕の手からとり、舐めた。舐め終わるのを待って、僕は彼女がどこから来たのか聞いた。
 彼女はある町の名前を言った。僕は鞄から地図を取り出し、その町を確認した。そこは今僕らがいる所から三キロメートルほど北に行ったところにあった。僕はどうして彼女がこんな所にいるのかはわからなかったが、とにかく彼女をその町へと連れていこうと思った。僕は彼女の手をとり、自転車の所に戻った。そして、彼女を後ろに乗せるとゆっくりと走り出した。
 彼女の言った町に入るとすぐに交番が見えた。僕は交番に彼女を届けようと思った。こんななりの汚い男が少女をつれて夜道を走っていたら、余計な誤解を生むのは確実だったので、これから先は警察に任せようと思ったのだ。
 すでに警察には少女の捜索願いが出ていたらしく、警官はすぐに忙しく電話をどこかにかけた。
 いやあ、あんたが見つけてくれなかったらどうなっていたことか。ここらは野犬も多いし、最近じゃ頭のおかしいのも多いからなあ、と警官は僕に言った。
 その警官も最初僕が少女を連れて交番に入っていったときには警棒を持とうとしたのだ。だが、彼を責めることはできない。確かに僕の身なりは汚らしく怪しいものなのだから。
 じきに少女の両親が交番にやってきた。少女の親は僕に深々と頭を下げた。
 彼らも最初は僕の姿を見て少しびっくりしたようだったが、警官が、僕が自転車で日本を縦断している冒険家だと説明したら、すぐになぜか僕のことを尊敬のまなざしで見るようになった。
 彼らは何か礼をしたいと言ったので、僕は風呂とご飯を食べさせて欲しいと言った。彼らは民宿を営んでいたのでそれは叶えるのがたやすい要求だった。
 というわけで僕は二週間ぶりに大きな湯船につかり、立ち上る湯気を見ている。風呂から上がると豪勢な夕飯が待っていた。少女も綺麗な格好に着替えていた。少女の父親はしきりに僕に酒を勧めてきた。すでに彼は酔っぱらっていた。娘が帰ってきたことに安心したのだろう。僕が夕飯を食べ終わる前に酔いつぶれてしまった。
 僕は夕飯を食べ終わると与えられた自分の部屋に行った。部屋にはすでに布団が敷かれていた。
 僕は布団に横になった。久しぶりに体を堅い寝袋以外の所に横たえることが出来た。僕は横を見て鞄を引き寄せた。そしてそこから財布を取り出すと中から一枚の名刺を取り出した。
 名刺の斜め上には(株)超宇宙防衛軍と書かれている。その下には僕の名前がある。
 だが、この名刺は僕が作ったものではない。
 半年前、僕は都内の大きなデパートに勤めていた。
 ある日、僕はデパートのトイレの個室で用を足していた。個室に入りしばらくするとあたりの空気が変わったのを感じた。あんな感じを受けたのは生まれて初めてだった。何がどう変わったのかは上手く説明することができない。だが、とにかく何かが変わったのだ。そして、あれがやってきた。あれはずるりずるりと足を引きずりたまに息をはあっと吐いてトイレに入ってきた。僕がいる個室の扉は閉められているためにあれがどのような見た目をしていたのかはわからない。だが、そのうめき声や足音からなんとなくがま蛙の溶けた妖怪のような印象を受けた。
 あれは僕の隣の個室に入って鍵を閉めた。それからごぼごぼと嫌な咳をしながら何かを流していた。僕は動くことが出来なかった。息を殺し、じっと身を潜めて気配を消して隣のあれが奏でる奇妙な物音に耳をひそめた。
 あれは一分ほどで個室を出た。それからまたずるりずるりと足をひきずりトイレから出ていった。あれがいなくなるとまた空気が変わった感じがした。変わったと言うより元に戻ったという感じだ。しばらくの後に僕も個室を出た。床に泥のついたモップをなすりつけたような足跡があると僕は思ったのだが、そんなものはなかった。いつもの綺麗なトイレのままだった。僕はトイレを出てあたりを見回した。デパートの中はいつものとおりだった。売場のスタッフは所定の位置で仕事をこなしていた。客の中にも変わった人物はいなかった。
 僕はもう一度トイレに戻った。それから、あれが入った個室に行ってみた。個室、それ自体はなんら変化していなかった。ただ、閉じられた便座の上に何かが置かれていた。
 僕はそれを手に取った。それは上質な紙で作られた名刺だった。そこには(株)超宇宙防衛軍となぜか僕の名前が書かれていた。
 僕はその一ヶ月後会社を辞めた。別にこの奇妙な名刺を拾ったからではなく、もとから金がある程度たまったら自転車旅行に出ようと決めていたのだ。
 会社を辞めて一週間後、僕は自転車に乗って長い旅に出かけた。名刺を財布に入れて旅に出かけた。なんとなくだが、この奇妙な名刺を持っていこうと思ったのだ。
 そして、それから五ヶ月ののち、僕はこの民宿で寝ている。
 僕は名刺を財布に戻すと深い深い眠りについた。

 翌日、早朝に僕は民宿を旅立つことにした。ごそごそと用意をして出かけようとしていると、民宿の少女とそのお母さんが起きてきた。僕は一晩の礼を言った。少女は目をこすりながらもう行くのか、と言った。僕は次に行かなければならないところがあるから、と言った。なんだか少女は名残惜しそうだった。
 僕はふと思いつき、鞄から財布をとり、そこから名刺を取り出してそれを少女にあげた。
 少女はその名刺を両手で持ちじっと見ていた。
 僕は少女とその母親に軽く頭を下げると自転車に乗り、勢いよく駆け出した。
 朝の風をここちよく切り裂きながら僕の自転車は坂を下っていった。しばらくの後に振り返ると民宿はすでにかなり小さくなっていた。そこにはもう少女もその母親の姿もなかった。
 僕は十年後も少女はあの名刺を持っているのだろうかと考えた。もしかしたら宝物を入れておくクッキーの缶にでも保管しているかもしれない。そしてごくたまにその缶の蓋を開けて中に入っているものを見るのだろう。
 僕はその少女の姿を想像した。
 古くなりすすけてきた名刺を手に持つ成長した少女の姿は僕にある種のおもしろさを与えていた。
 そのおもしろさをきちんと説明することは難しい。だが、とにかくある種のおもしろさが僕の中に芽生えた。そして、それはしばらくの間僕の心を捕らえ続けた。
 朝陽を背中に浴び、風を切るようにして自転車を漕ぐ僕の心をそれはしっかりと捕らえ続けたのだ。



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