| 〈怒り屋さん〉 怒り屋さんの笛の音が聞こえた。 なつかしいな、怒り屋さんの笛の音だ、と僕は息子に言った。 祭りの会場は大勢の人で賑わっていた。僕らは人の流れをゆったりと泳ぐように歩いていた。 怒り屋さんの笛の音は、人々が発する様々な音の中を一瞬だけ切り裂くようにして発せられていた。怒り屋さんがどこにいるのかはわからないが、祭りの企画として、たくさん設置されたテントのひとつにいるのだろう。 怒り屋さんって昔の職業でしょう、と息子が聞いてきた。息子は八歳で、右手に杏飴をもち、左手にラムネの瓶を持っていた。 そうだね、昔は国の方針で人々の感情が高ぶらないようにするために水に特殊な薬をいれたんだ。あまりにも犯罪が多かったからね、と僕は言った。 でも、そうしたら人口が減ってしまったんでしょ? と息子が言った。 よく知っているな、と僕は言った。 学校でならったもん、と息子は言ってからラムネをごくごくと飲んだ。 結局その薬のせいで人々がみんな極端におとなしくてつまらない人になってしまったんだよ。犯罪はたしかになくなったけど、人々の交流も貧しいものになってしまって、結婚する人や子供を作る人も少なくなってしまったんだ。国は薬を流すことをやめたんだけど、すぐには人々はもとに戻らなかったんだ。人々は自分の感情を表現することを忘れてしまったんだ。だから国は今度は怒り屋さんのように感情を表現する方法を教える人々を育成して、色々なところで講演させたんだ、と僕は言った。 講演? と息子が言った。 講演って言うのは人々を集めてその前で話をすることだよ。怒り屋さんは公園で講演したんだ、と僕は言った。 公園で講演、と息子はつぶやいていた。 僕は怒り屋さんが好きだった。怒り屋さんは夕暮れに近所の公園にやってきてあの独特の笛を吹く。僕らはその笛の音を聞いて待ってましたってばかりに家を飛び出て公園へと向かった。公園には多くの人が集まっていた。僕らは怒り屋さんからお菓子を買う。それは怒り屋さんの大事な収入になる。僕らはその後、怒り屋さんが教えるさまざまな怒り方の抗議を楽しく聞いた。 それは娯楽の少ない僕らの生活の中ではかなり刺激的な時間だった。 僕は息子の手を取った。 息子の手は杏飴でべとべとしていた。僕は彼の手を水道の水で洗ってあげた。そしてハンカチで拭くとまた彼の手をとって歩き始めた。 息子の手は水道の水でひんやりと冷たくなっていた。冷たくて柔らかい彼の手を握るのは気持ちがよかった。 僕は怒り屋さんがいなければ息子の存在はなかったのかもしれない、と思った。息子の存在がないということは彼のひんやりとした手を握ることが出来ないと言うことだ。僕はそんなのは嫌だと思った。単純に嫌だと思った。 お父さんどうしたの? と息子が聞いてきた。 僕はどうもしていないよ、と言い、それから、怒り屋さんを見に行こうか、と言った。 息子は、うん、と首を縦に振った。 僕は息子の手を握ったまま怒り屋さんの笛の音がする方へと、人混みをかき分けるようにして歩いていった。 怒り屋さんの笛の音はいまだに鳴っていた。人々のざわめきの上を、月のきれいな夜の海を泳ぐいるかのように自由に、そして楽しげに、まるで自分には羽すらの生えているのだといわんばかりに跳ね回りその存在を主張していた。 |
了