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 =まぼろしラジオ@=

 今から十数年前、今でいう杉並、高円寺にAという女性がいた。世は戦争からの復興に燃え、ようやく街というものが形作られてきた頃だった。
 中国大陸へと送られたAの夫は戦争が終わっても帰ってこなかった。遺体や遺骨も帰ってこなかった。だから、世の中的には行方不明のまま、死亡したことになっていた。Aには本人が望まないにせよ、未亡人という肩書きがついた。
 Aは三十を少し越えていたが、その類まれなる容姿に惹かれる男は少なくなかった。
 長い黒髪と、キラキラと光り輝く瞳、なまめかしい唇にひかれた紅は男達を魅了した。だから、混乱の時代に女性一人で生きていくのは難しいでしょう、と言い寄る小金持ちや、月々の手当てで自分の愛人になれと迫る輩も後を絶たなかった。
 しかし、Aは夫が戦争で死んだということを信じられなかった。そのため、男達の誘いはすべて断っていた。
 Aが夫と行動を共にした戦友たちから聞いた数少ない情報は、Aの夫は市街戦で敵戦車の砲撃をくらい建物ごと生き埋めになったということであった。だが、誰も実際にその建物の下にAの夫が埋まっているのを確認したものはいなかった。戦場は混乱し、白熱していた。戦友は建物が戦車で破壊されるところと、その建物にはAの夫がいたはずだという情報から生き埋めになった、と思った。
 その日、日本軍は圧倒される敵軍の攻撃力にその街から敗走した。Aの夫の生死は日本軍には知ることが出来なかった。
 実際に死んでいるかどうかはわからない、とAは日々考えていた。
 心から愛した夫と過ごした時間を忘れることが出来ず、Aの心の中で夫の存在は昔よりも大きくなっていた。
 Aは夫の生死を調べようと数年間東奔西走した。
 だが、夫が生き埋めになったと言われている街の名前がわかっただけで、夫がその後どうなったかは情報が全くなかった。出来るならばその街に行きたいと思ったが、金銭的、社会的にそれは今はまだ叶わぬ夢だった。

 ある日、Aは新しく栄えてきた駅前の商店街を歩いていた。そして、ふといつもと違う道を通って家路につこうと思い、小さな路地に入った。
 路地を進むうちにAは一軒の古道具屋にたどり着いた。
 こんなところにお店があったのかしら? こんな場所でいったいどれだけお客が来るのだろう、とAは思いながら少し興味を惹かれたのでその古道具屋に入った。
 中は埃臭く、かび臭かったが綺麗なグラスや戸棚、机などが所狭しと並べられており、なかなかに面白かった。Aは小さな店の中に並べられたそれらを見てまわった。ガラス細工の動物達や、奇妙な模様の入った茶碗を見てまわるうちに、一台のラジオに気がついた。
 ラジオは木製で側面に羅針盤のような模様が彫りこまれ、星のマークが入ったつまみが真ん中に一つついていた。
 その時代にはありえないことだが、ラジオは作られてから既に数十年経っているようにAには感じられた。
 Aはそのラジオを手にとって見た。ラジオは思ったよりも軽かった。
「そのラジオが気に入ったかね?」
 Aは店の奥から突然そう言われ、危うくラジオを落としそうになった。声の主は店の奥の箪笥類に埋もれるように座っていた小さな老人だった。髭が長く、地面についてしまいそうだった。また、その逆に頭には髪の毛が全くなかった。顔は皺だらけであり、たとえ彼の顔を上下逆にしても顔として成り立ってしまいそうな感じがした。
「え、ええ。これはラジオなんですよね?」
 Aは彼に訊いた。
 老人は立ち上がりAに近づいてきた。Aのすぐそばで立ち止まるとAをしげしげと見た。
「そうだ、いかにもそれはラジオじゃ!」
 老人は小柄な体格であるにもかかわらず声は大きかった。老人はAの全身をくまなく見回していた。
「でも、周波数っていうの? あれを合わせるものがありませんわ。つまみが一つついているだけで……」
 Aは星のマークが入ったつまみを回しながら言った。
「そのラジオはそれでいいんじゃ!」
 老人はつまみをいじるAの手を取り大きな声で言った。そしてまたAのことをじろじろと見た。
 やがて老人はふうむと何か納得したように首を縦に振ると、先ほど座っていた箪笥の間に埋もれるように設置された椅子に戻り、座った。
 Aはラジオをもとの棚に戻そうとした。
「そのラジオはお前さんにやるっ!」
 老人は店の奥から叫んだ。Aは老人を見た。
「高いものを買うお金はないんです」
 Aは言った。
「やるというのは金はいらんということじゃ!」
 また老人は大きな声で言った。Aは少し困った顔をした。老人は再び椅子を降りるとAのところにやって来て、そのラジオを無理やりAの手提げ鞄に入れた。それからAのおしりを押して路地へとつきだした。Aは老人にされるがままに路地でぽつねんと立っていた。
 老人はAが見ている前で店をたたみ始めた。外に出ていた商品を店の中へと移動してガラス戸を閉めて鍵をかけた。
「今日はもう店じまいじゃ!」
 Aは何か言おうと思ったが、老人は店の横から中へと入っていってしまった。あたりは静かになった。先ほどまでは風の音や人や虫の声が聞こえていたように思えたが、今は何の音も聞こえなかった。
 Aはゆっくりともと来た道を歩いて戻った。途中何回か振り返ってはみたが小さな店があるだけで老人の姿はなかった。
 やがて、Aはいつもの路地へと出ると普段どおりの道をとおり自宅へと帰った。
 Aは家に着くとラジオを手提げ鞄から取り出し机の上に置いた。
 さて音を聞いてみようと思ったが、電源はどうやっていれるのかわからなかった。ラジオを持ち上げよく見回してみたが、それらしいスイッチはない。電源をとるコードも見当たらない。
 しかたがないのでAは、ラジオを机の上に戻すと片肘をついて、たった一つだけついたつまみをからからと回してみた。だが、ラジオからは何の音も聞こえなかった。
 Aはラジオに飽きると洗濯物を取り込むために庭に出た。青空には白い雲が綿菓子のように浮んでいた。
 Aは洗濯物を取り込みながら夫のことを考えていた。今どこでどうしているのか、生きているのか死んでいるのか。
 と、ラジオが音をだしたような気がした。
 Aは洗濯物を抱えながら部屋へと戻った。洗濯物を畳の上に置き、ラジオのつまみを回そうと手を伸ばしたとき、ラジオからニュースを読み上げるアナウンサーの声が聞こえてきた。
 Aはつまみをいじるのをやめ、そのアナウンサーの声を聞いた。
 アナウンサーはどうやらさきの戦争のことを話しているように思えたが、現在の情報とは思えないものだった。
 Aは洗濯物をたたみながら、しばらくラジオを聞いていた。
 やがてAはあることに気がついた。
 アナウンサーはただニュースを読み上げるだけではなく、ゲストを招いてのインタビューや、特派員らしき仲間との会話も交えてニュースを読み上げていたのだが、どうやらそれが誰か特定の人物に関する情報を追っているのだ。
 そして、その人物とはどうやらAの夫のことであるように思えた。
 Aはまさかそんなことがあるわけがないと思いながらもラジオの前に座り、聞き耳を立てていた。
 ニュース番組が追っている人物がいる部隊は中国のとある街へと進攻していた。
 特派員が戦場の状況を今まさにそこにいるかのようにレポートする。
 Aは自分の耳を疑った。
 だが、やがてニュース番組が追っている人物が彼の夫であると確信した。
 なぜなら、その人物がいた建物に戦車の砲弾が命中して、生き埋め状態になったからであった。しかも、番組が伝えたその人物の特徴である首筋の大きなあざの形も夫のものと同じだった。
 Aは驚きつつも、アナウンサーの声を一言も聞き逃すまいとずっとラジオの前から動かなかった。
 夜が来て、やがて朝日が昇ってきたとき、いつのまにかAは机にうつぶせになって寝てしまった。

 夜が明け、太陽が既にかなり高いところに昇った頃にAは目を覚ました。
 ラジオはまだニュースを読み上げていた。Aは一瞬夢を見ているのかと思ったが、それは現実のことだった。
 Aの心は騒いだ。
 なぜなら、昨日までのラジオから得た情報で、Aの夫が生き埋め状態から敵軍に助け出されたと知ったからであった。
 ラジオの伝えることを信じるならば、Aの夫は生きていた。
 だが、体にひどい損傷を負ったAの夫は意識がなかった。
 Aは朝食を作るために、台所に立っていた。ラジオは彼女のすぐそばにあり、ずっとその後のニュースを流しつづけていた。
 番組はだんだんとニュースというよりはドキュメントやノンフィクションの小説を読み上げるような形態へと変わっていった。
 Aは簡単な朝食を食べ終わると、ラジオを畳の上に置き、自分もうつぶせになって寝転がると顔をラジオのほうへと向けじっとラジオが伝える物語を聞いていた。
 からっとした乾いた風が庭先から入り込んできてAの体を撫でていった。外では少し季節の早いセミが鳴いていたが、Aには今はラジオの音しか聞こえなかった。
 Aの目から涙がこぼれ、一筋の線を描いて畳に落ちた。
 Aの夫は意識を取り戻したのだ。
 それから三日に渡ってAはラジオを聞き続けた。
 ラジオは収容所でのAの夫の回復を伝えつづけていた。
 やがて、戦争が終わり、奇跡的にAの夫は帰国してきた。
 ラジオが伝える内容は、非常に現在に近いところまで時間が進んでいた。Aの夫は日本で生活していた。
 だが、Aにとっての悲劇が一つあった。
 Aがそのことを知ったとき、Aは自らの命を絶とうと一瞬だけだが、本気で考えたほどだった。
 生き埋め状態から助け出されたAの夫は記憶を無くしていた。
 そして、意識を取り戻し、記憶がないまま帰国し、リハビリを続けるうちに出会った女性と恋に落ちたのだ。二人は苦難の時を乗り越え、苦労の上、結婚した。
 ラジオの物語を伝える口調が、豊かな表現力と感情のこもった抑揚で構成されていたために、Aには夫と彼女が恋に落ちていく様子が手にとるようにわかった。
 Aには自分がどうすればいいのかはわからなかった。いったいこんな状態になってしまって自分はどうすればいいのか全くわからなかった。
 ラジオは現在のAの夫(いまや他人の夫だが)の住所も伝えていた。彼らは現在、横浜に新居をかまえていた。Aは素早くその住所を紙に書くとじっとその紙を見ていた。
 Aは夫に会いに行くことに決めた。いや、遠くからその存在を確認できるだけでもいいと思った。この紙に書かれた住所に夫がいるのかどうか知りたかった。
 もし、ラジオが本当にAの夫のことを伝えているのであれば、この住所に今、彼らは住んでいるはずであった。
 Aは出かける用意を始めた。出かける間際になって、Aはラジオを持っていこうかどうか迷った。
 すると、ラジオのほうがAの気持ちを察したのか、アナウンサーが、それではまた明日にお会いしましょう、と言って番組が終了した。
 Aは横浜へと向かうために家を出た。

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