<01>

 =手痛い一撃と血の匂い、予定通りのこと=

 大体、モンティは玖瑠荷(くるに)のことをわかっていない、とリングサイドにいる鳴門レオは思った。
 リング上では激しく殴りあう二人の男がいた。玖瑠荷と冷蔵庫というあだ名の黒人ボクサー。Gという名のクラブでは週末ごとに狭いリング上でボクシングの試合が行われていた。
 腕に自信が有れば誰でも参加できる。ビルが丸ごとクラブになっているGの五階でラフなファイトは続けられていた。
 かかっている曲はイエスからキングクリムゾンへと変わった。客の熱気は物凄い。他の階では激しいテクノやトランスがかかっていて、いつものようにティーシャツを汗で濡らしているお客で賑わっていた。いつもの五階はサロンのようになっている。だが、今日に限っては、この五階は他のフロアーをしのぐ熱気で盛り上がっていた。
 冷蔵庫の左フックをくぐった玖瑠荷は、懐に滑り込むと体重をかけた右フックで冷蔵庫のわき腹を痛打した。衝撃に顔をゆがめながら黒い冷蔵庫は玖瑠荷を抱きかかえてた。クリンチ状態から離れろとレフリーが二人の間に入る。
 体格で比べた場合、冷蔵庫のほうが玖瑠荷より頭半分大きい。だが、精神的にもろいところがある黒人の冷蔵庫よりふてぶてしい面構えの日本人である玖瑠荷のほうが強いと言われていた。レオもそう思っている。
 この三ヶ月程行われてきた闇ボクシングのトーナメントもこの試合で最後となる。つまりは決勝戦だ。冷蔵庫は相手の怪我やラッキーパンチで勝ち上がってきた。だが、玖瑠荷は本物の格闘家や強敵と戦って文句の無いノックアウトを決めて決勝まで来た。そこらへんのところをわかっているお客はみんな玖瑠荷が勝つと思っていた。
 早い話、ラフなファイトで玖瑠荷が勝つところをみんな見に来ているのだ。
 そんなに戦うことが好きならプロの格闘家になればいいのにと何度もレオは玖瑠荷に言ったが本人には全くその気はないらしい。殴りあうのは本業でたまったストレスを発散させるためだけだと言う。
 最近の格闘ブームでファッション誌にまで格闘家の記事が載るようになると、自然、アンダーグラウンドの格闘家として玖瑠荷のことも載るようになった。そして、玖瑠荷の作品である洗練されていて力強い造型の家具達も載るようになった。
 名前が売れてくると商品も売れるようになる。しかもインタビューにほとんど答えず、ただ勝ち続け、作品を作り続ける玖瑠荷の姿勢はカリスマを感じさせるらしく、その作品は偽物が出回るくらいに有名になり高い値段で売れていた。
 モンティは玖瑠荷の作品が売れているのは自分のクラブで行われているボクシングの試合のおかげだと考えていた。確かにそれは間違いじゃない。レオもそう思っていた。だが、だからといって玖瑠荷がモンティの言うことを何でも聞くと思ったら大間違いだった。
 冷蔵庫が玖瑠荷の右頬にジャブをいれた。だが、玖瑠荷は素早くスウェーでダメージを減らすと素早い右ストレートでお返しとばかりに冷蔵庫の顔にパンチをいれた。血の混ざった汗が飛ぶ。
 第三ラウンドまでの玖瑠荷の動きでレオには彼がこの試合に負ける気がないということがわかった。大体予想はしていたことなのでそのこと自体は別にびっくりするような事ではない。問題なのは玖瑠荷が勝ったあとどうやってGから逃げるかだった。
 三日前モンティは言った。
「次の試合は負けて欲しいのよ、玖瑠荷ちゃん。もしも勝っちゃったら、もう二度とうちのリングにはあがれないからね」
 多分だが、Gではないほかの場所でこの試合はギャンブルの対象になっているようにレオは感じていた。
 Gに集まるような純粋に試合を楽しむ若い奴らとは違う世界に生きている奴らが、どこかで座りごこちのいいソファに座ったまま試合を楽しんでいるのだ。
 前評判のいい玖瑠荷はこの試合でほぼ勝つと思われているのだろう。玖瑠荷はGの事務所でモンティにそう言われたとき何も言わずにうなずいただけだった。モンティはその答えに満足したようであった。
 ゴングが鳴り、コーナーに玖瑠荷が戻ってきた。レオは丸椅子をリングに上げた。玖瑠荷が座る。マウスピースを外すとレオに向かって小声で言った。
「レオ、次で終わる。逃げる用意をしていろ」
 カーンとゴングが鳴り玖瑠荷は椅子から立ち上がった。レオは外に出ている荷物を鞄に入れ始めた。
 冷蔵庫が大振りに右フックを出してきた。玖瑠荷はそれをよけて滑り込むと中腰のまま左フックで冷蔵庫のわき腹を刺した。とっさに冷蔵庫が玖瑠荷を抱えようとしたが、玖瑠荷は素早くよけて軽い右ストレートを冷蔵庫の左顔にいれた。冷蔵庫は慌てて顔面をガードしようと手を上げた。玖瑠荷は軽いフットワークで冷蔵庫に近づくと心臓の上めがけて体重の載った右ストレートを繰り出した。バシンという音と共に汗が飛び散り、冷蔵庫が一瞬動きを止めた。玖瑠荷は低い体勢から左アッパーで冷蔵庫のガードを弾き飛ばすと剥き出しになった黒い顔面めがけて最後の右ストレートを叩き込んだ。
 レオが全ての荷物を鞄に入れ終わると同時だった。

 =静かな朝、シナモンをかけたホットミルクとメルの寝顔=

 璃音(りおん)、これをよろしくね、と言われてマーチから渡されたハムエッグとトーストとシナモン入りのホットミルクを白いプラスチック製のお盆に載せて僕は二階へと階段を上っていった。お盆は縁が金色に塗られていた。
 オラクルの面白いところはアパートメントでありながらホテルのようにルームサービスを取ることができるところだ。実際、一階の数部屋は短い期間の宿泊が可能になっている。アパートメントオラクルと看板には書いてあるとはいえ二階部分も一年契約であるために実際には少し特殊なホテルという見方もあった。
 僕にはホテルだろうとアパートメントだろうとカテゴリーはどうでもよかった。ただ一つ言えることはこの建物と空気感はとても想像力を膨らませてくれ、心が平穏なまま創作活動に取り掛かることが出来るということだった。
 僕の足音を聞きつけ二階の廊下をミニチュアダックスフントのメルが走って来た。階段の上から覗いている。キラキラとした小さな瞳が光っている。
 キューブ型のオラクルは真ん中部分に階段がついており四面に八つの部屋が作られていた。だから二階には八人の住人がいる。全員が独身なので八人だ。たまにみんなの彼女や彼氏が来るが、基本的には八人しか住んでいない。
 三階部分はこのアパートメントの持ち主である米利じいさんとその息子、アントニオとその子であるマーチとジョエル、それに雑用からコックまで何でもこなす体格のいいスティーブが住んでいた。
 米利じいさんは外人顔ではあるがどうやら日本人のように思えた。だが、その子であるアントニオやマーチ、ジョエルは名前でもわかるとおり日本人ではないようだ。米利じいさんの奥さんが外人だったのか養子にアントニオをもらったのかはわからない。いつか機会があったら聞いてみようとは思っているのだがいまだそのチャンスは来ていなかった。
 足元でじゃれるメルを踏みつけないように二〇三号室の前まで来た。金色の呼び鈴を押す。ビーという音が部屋の中から聞こえる。しばらく待っているとカチッという音がして扉が開いた。
 二〇三号室の木亭阿連(もくていあれん)は小説家だ。ミステリー作家である僕とは違い、恋愛小説の世界で名が売れている。年は多分六十を過ぎているはずだった。足を悪くしていつも車椅子を使っている。部屋からほとんど出ずに執筆にうち込んでいるため部屋が二階であっても彼にはたいしたことではないらしい。
「ああ、君か」
 木亭は扉を開けると僕を部屋の中へと招いた。
 部屋の中には備え付けのベッドと机と椅子以外家具と呼べるようなものは見当たらなかった。小さな木製の机の上には書きかけの原稿とペン、それに数冊の本があるだけだった。
 木亭はステンレス製の車椅子に座っていた。起きて間もないのか白髪が寝癖で逆立っていた。
「食堂にいたところマーチに頼まれましてね」
 僕はトーストやミルクが載ったお盆を小さなテーブルの上に置いた。木亭が椅子を引いてくれたので僕はそこに座った。窓からは朝の光がやさしく差し込んでいた。僕と一緒に入ってきたメルがひざの上にのってきた。ぽかぽかとしているのか目をつぶるとすぐに寝息をたて始めた。
 木亭はトーストを取ると口に運んだ。
「その原稿は新しい作品ですか?」
 僕はメルの背中をなでながら聞いた。
「ああ、そうとも言えるしそうでないとも言えるかもしれん。まだ私にはそれはわからない」
「わからない?」
「そう、わからない」
「ふむ」
どうやら彼の作品はプロットを考えて設計図を書いてから書き始める僕のミステリー小説とは違うようだった。
「テーマはいつも決めて書くのですか?」
「いや、いつも知らない間に決まってしまう。君はいつも決めて書くのかね」
 少し考えた。
「そうですね。やはり作品の方向性は意識して書いていますね」
 木亭はホットミルクを飲んでいた。
「そういう書き方もあるだろう。だが、私の場合は違う」
 木亭の作品は売れていた。ねじれた純愛を描いた作品が多かったが売れていた。何冊か読んだが理解できる部分もあるし理解できない部分もあった。だが、理解できない部分でもつまらない部分は一つもなかった。
 僕は立ち上がり、メルを抱いたまま窓のそばへと歩いた。外を犬を連れたお爺さんが歩いていく。
「今日はずいぶん天気がいいみたいですが外にはでないのですか?」
「窓から見れば外の様子はわかる。出かける用事はない」
「階段の昇り降りは手伝いますよ。今日は夕方友達の結婚式の二次会に行く以外は予定はないんですよ」
 木亭は声を出さずに首を横に振っただけだった。
 僕はまた外を見た。犬を連れたお爺さんはいなかった。
「今日面白い夢を見ました」
 僕は椅子のところに戻って来ると言った。
「夢?」
「ええ、聞きたいですか?」
「気にはなるな」
「トムクルーズが出てきました。トムクルーズは知ってますか?」
「もちろん。飛行機乗りの映画に出ていた俳優だ」
「そうですね。その映画は少し古いけど」
「それでトムクルーズがどうしたのかね」
「トムクルーズはまあ出てきたのですが、彼はそれほど重要ではないんです。トムが寝ている棺おけみたいな宇宙船があるのですがそれが地球に落ちてくるんです。トムは夢の最初で宇宙船の小窓からちらりと顔が見えるだけです」
 ふむふむと木亭は興味深げにうなずいていた。
「それで、僕はその映像を万博とかにあるパビリオンで見ています。巨大な建物で、近未来の映画館といった感じです。映画館とは違って中は明るくて白いペンキを塗られた鉄筋が複雑に組み合わさっています」
「それは夢の中でだろう?」
「夢の中でです。それでそのパビリオンの巨大モニターに地球に落ちていくトムが乗った宇宙船が映っているのですが、だんだんと地表に近づくにつれなんだか見たことがある建物が映し出されます。何だと思いますか?」
 木亭は少し考えていた。
「東京タワー?」
 僕は首を横に振った。
「正解は、僕がその映像を見ているパビリオンです。トムが乗った宇宙船は猛スピードでパビリオンに落ちて来てるんです。で、僕と他のお客は椅子に座ってその映像を見ているのですが、あっ、ぶつかるっと思った瞬間パビリオンの高い天井が大きな音を立てて壊れます。物凄い爆音と衝撃と火花でパビリオン内は騒然となります」
 木亭は食べるのをやめて聞いていた。
「天井を突き破った宇宙船は、パビリオンの鉄筋をカッターナイフで切るようにして突き進むと客席に飛び込んできます。そして、どういうわけか地面につくと跳ね返り、パビリオンの壊れていない壁に向かって弾き飛んでさらに鉄筋を切り裂いていきます」
 僕は話をわかりやすくするために身振り手振りをつけて話した。
「パビリオン内は逃げ惑う人々と鉄筋の崩れる音、電気がショートしたり炎が上がる音ではちゃめちゃです。それでどうなったと思います?」
「夢にオチがあるのかね?」
 木亭は怪訝そうな顔をして言った。
「ええ、この場合はあります」
「話してくれ」
 僕はうなずいた。
「一通りパビリオンが破壊され、メインの電源がやられたのか一瞬真っ暗になります。だけどすぐに電気がつき明るくなります。そしてアナウンスが流れます。上映はこれにて終了します。本日はおこし頂きまことにありがとうございました」
 木亭は小さくうなずいた。
「そして宇宙船によって激しく破壊されたパビリオンはギーギーと言う音を立ててもとに戻っていきました。僕はあっけにとられてパビリオンの端っこでその様子を見てました。そこで目が覚めました」
 木亭はミルクを口に運んでいた。白髪の混じった髭にミルクがついている。
「夢なのに一応つじつまの合うオチがついているのがおもしろいな」
「そうですね。でも、本当にこんな夢だったのです。起きたときはあせりましたよ。夢でよかったって思いました。人間の技術力が上がってもこんなパビリオンは作らないほうがいいですね。心臓麻痺で死人が出るかもしれない。あっ」
「どうした?」
「短編のアイデアを思いつきました。激しい夢を見させて心臓の弱い人を殺すんです。保険金をかけて。証拠がないから完全犯罪になる。問題はどうやって夢を見させるかと、このアイデアだけだと多分すでに書いてる人がいるかもしれないからさらに二ひねりぐらいしないと……」
 僕はメルを膝に抱いたまま少し考え始めた。木亭は残りの朝食をとり始めた。部屋の中は静かになった。

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