携帯恋愛小説
『ノーベンバーレイン』
窪璃音/著
第五章
[E007]
涼子がいつカテーテルから普通の食事がとれるようになったのかは正確には覚えていないけれど、世の中に味というものがあるということに気づいた時の彼女の衝撃はどれほどだったろうと考えることがある。
それは僕がすでに息をしていない涼子を抱きかかえた時、いつもとは違い、首がしなだれ倒れたのを慌てて支え直した際、ああ、こいつは普段抱かれている時にきちんと首に力を入れていたんだ。
こいつはこいつなりに、抱かれる時にそれなりのことをきちんとしていたんだ、と気がついた衝撃と同じくらいであるのかもしれない。
体は小さく、手足は不自由である涼子だったが、それでも嗅覚や聴覚、味覚や視覚はどうやら普通の人のように発達して役に立つものであったようだ。
もしかしたら、普通の人よりも手足が不自由な分だけ、それらの感覚は鋭かったのかもしれない。
年をおうごとに、涼子はしっかりとそれらの感覚を使って意思表示や個性を発揮するようになった。
食べ物には好き嫌いがあったし、音楽にもあったようだ。
臭い匂いがすると、うう、うう、となんだか文句を言うし、僕がそばに座っていると横を向いて僕をじっと見てやっぱり、うう、うう、と言ってなんか話しかけてくる。
僕以外の人間だとあまり話しかけないのでやっぱり人間をしっかりと見分けていたようだ。
涼子の脳はかなりの発達の遅れがあり、人の言葉をほとんど理解することはできなかった。
会話がないからどれだけ理解していたのかを正確に知ることはできないのだが、自分の名前やごはん、なんていう簡単な自分の生活に関係する言葉は、それが何を指すのかはわかっていたみたいだ。
でもそこ止まりだったと思う。
自分で、日本語で、何かを考えているような気配はしなかったし、それを話すということもなかった。
それでも外部の状況は彼女なりにわかっていたようであり、たまに特製の椅子に座っていると、静かな哲学者のような顔をして一点をじっと見つめていることがあった。
そんな彼女は一九九三年の十一月に突然、眠るようにして息をひきとった。
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